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コミュニケーション・バイブル

中川俊郎

2012.04.25

物事を明るく受け止める

「うちのおやじがコーヒー党でね、コーヒーをよく飲んでいたんですよ」。小さい時はコーヒー豆をがりがりと挽く役目だった。「くたびれる〜」と言いながら、豆を挽いている時は、その音も音楽に聞こえた。なんでも音楽に結びつけてしまうことは自分の根源的な問題にも思えたが、欠点は捉え方を変えれば個性になる。影も光を当てれば影ではなくなる。「物事を明るく捉える」、それでコミュニケーションの問題は解決する。

たとえば、「もう帰る場所がないサラリーマン」という題材の曲を子ども用の教材でこの間作ったばかりだけれど、そうやって曲にしたり詩の材料にしたりすることで明るく見ることができる。ひどい目に遭った自分なんていうのもそう。自分の受け止め方を変えると明るく見えてくる。実際におかしなことが起きていても、すごい人というのは自分がいじめられていることにもあまり気がつかなかったりする。

オーケストラを置き去りにして舞台の上で紙を破いたり、空き缶をつぶしたり、おもちゃのラッパを鳴らしたり、めちゃくちゃにやっているような自分の過激な曲について、ある批評家が「幸福感に溢れている」と評して下さった。それはすごく大事なことで、どんなにひどく感じる音楽でも、作っている人が他人に対して愛情を持って投げかけていることで、音に光や明るさが入る。「ばりばりの現代音楽は、それこそバリバリと紙を破いたりするわけです」、そうするとそれが音楽かどうか、もはや普通の人はわからない。けれどそれが本当に美しい音なのだと表明(プレゼンテーション)し宣言出来ることの根拠として、他人や世界に現実に起きていることへの祈りや、人々に対する愛情表現、または愛情を持ち理解しようと努力する気持ちが、そこに含まれているかどうか…が、重要なポイントになってくる。

肉体がある僕ら

そうは言っても、物事の受け止め方が感情に流されてしまうことはある。「当然です。僕らは肉体を持っているのでね」。肉体的にも精神的にも具合が悪い時は本当に気をつけなくてはいけない。物事の受け止め方が悪くなっている時だから。そんな時は、怒りの感情やがっかりしたことに対して、すぐにかっとして行動したり、自分を防御しようとしたりせずに、ちょっと温存しておく。「コミュニケーションで一番大事なことは、今の自分を見ているもうひとりの自分がいることです」。

それは曲作りにおいても言える。昔作っておいた曲を新たにいじり直すことがよくある。その時、曲は昔作ったものだから感情が客観的になる。つまり冷めている時に新しくアレンジを変える。すると逆に曲に込められていた感情が前に出てくる。よく、感情表現をするために芸術があると言われるけれど、多分そうではなくて、感情表現に距離を置いた、冷めている時に取り組む方が「人に伝わりやすい感情になる」。客観的な自分と感情的な自分との間を自由に行き来する力があることが理想。

曲作りには体が実によく関わっている。曲ができる時というのは、まず第一に、ひとつの感情を味わっている時。良い感情でも悪い感情でも、ある感情を味わった時に体が、例えば怒りを感じた時に手や足の先や胃や腸や肩が、どう反応しているかを感じるようにする。体の感じを味わっていると体がほぐれてきて、険しい感情が険しくなくなってくる。自然体になってくる。自然体になると、オーケストラの曲の中で犬を「ワン」と鳴かせたり、そういうアイディアが出てくる。そこに全く意味はないけれど「意味のないことってすごく素敵じゃないですか」。みんな意味に縛られている。

第二に、環境が急に変わった時にそれが刺激となってメロディが浮かぶ。例えばお風呂から出て寒いところに移った途端にメロディが浮かぶ。これは環境が変わることによって意識が一度、素になるからではないかと思う。

パパ・タラフマラの「W/D」という3時間動き詰めの過激な舞台に出演したことがあった。しかもその時は一日2回公演の2回目。私はダンサーではないので、ほんの味つけ程度の出演だったけれど、他のキャストさん達は本当に大変で、皆へとへとで、中には両足が攣りながら踊っている人もいた。だけどその時はステージが光で溢れている感じがした。「今、その瞬間のことだけ」を無心に考えていたり、へとへとになって何かをやっていると余計な感情が入ってこない。余計な感情が入ってこないということは、感情的に豊かだということかも知れない。天才的な人は、発する音や所作に潜在意識が直接出る。自然体になることでその境地を目指しているのかも知れない。

他人を攻撃しない

「昔はあまり喋らない子どもだったんです」。人に対して悪口も言わないし、褒めることもしなかった。大学生になって、何か自己表現をしなきゃいけない、自閉的な人生から足を洗おうと、周りからおだてられ調子に乗って作曲家の悪口も言えるようになった。でも人の悪口というのは、悪意がない場合でもそれを発した人、発したその対象の相手ではなくて、発した人自身を傷つける。自分自身が傷ついてくたびれ、体の具合や心の状態が悪くなって、自分が敏感なことが分かった。

正統的に攻撃する。正しいんだから攻撃したいという気持ちになることもあるでしょう。それでも攻撃するということはやっぱりやっちゃいけないこと。僕らは自分についても無知だし、他人については圧倒的に無知。「なんにも知らないんだから、僕らは人のことなんて」。2年経って自分が間違っていたことに気付くこともある。それは2年経たないと絶対に分からない。僕なんかは、10年経って嫌いな人間じゃないとわかった時には、もうその人はいなくなっていて、後の祭りだったということがあった。だから自分の感覚も不明瞭。一番いいのは、自分のことを知ろうとすることで、自分のことを本気で分かろうとすると他人のことも分かってくるんじゃないかという気がしている。

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中川さんの弾くピアノの音は美しい。と言うと、「ピアノの音色(おんしょく)だけが売り」と冗談ぽく笑う。ピアニストじゃないから弾けないものもたくさんある、だけど「エネルギーを込めることはできる」。思うように弾けないと思いながら、思うように弾けないということは珍しく自分が演奏に真剣になったということで、緊張している自分のそんな姿を空から何かが降りてきた感じがしたと人に形容された。それを受けて自分を指差しながら「神様以外にこんなものが降りてきても困るしね。天使?クレイジー天使ですね!」。 喫茶店の「神様のゼリー」(中川さん命名)を食べながら、「自分の素晴らしさを分かっている人というのは素敵ですよ」と言う。それは中川さん自身のことのように思う。

取材・写真 篠田英美

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