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コミュニケーション・バイブル

松島誠

2012.07.04

もともとは絵を描いていた

もともとは演劇に興味はなく、絵を描いていた。日本大学芸術学部美術学科の工業デザインコースに入学し、自動車のデザインをやりたいと思っていたが、興味は現代美術へ移る。学生時代は、大学内の空き地に10m四方に紙を敷き詰め、絵を描いたりしていた。

ある日クラスメートから、劇団で人が足りないので手伝ってくれと頼まれ、舞台の壁にペンキを塗りながら稽古を見ていると、自分が考えていた演劇とは全然違うことをやっている。それが今の「パパ・タラフマラ」の前身、「タラフマラ劇場」だった。激しく動きながら意味不明な台詞を2時間半喋りっぱなしの舞台。そのうちに、「松島くん、ちょっとそこに立っていてくれる?」と言われ、「ちょっと走ってくれる?」となり、やがて出演する羽目になった。それが19歳の頃。なにせ美術畑で、体を動かすことと言えば高校から始めた卓球と合気道くらいで、演技やダンスのトレーニングは受けたことがない。そこからバレエやモダンダンスのクラスに通い始め、技術を得ることをしたが、28歳の時にスランプに嵌る。技術はある程度得た、けれど自分には何もない。技術が一体何になるのだ?

その頃「マクベス」で主演を演じるはずの男優が降板し、代わりに「マクベスをやれ」と言われ、それが転機になった。マクベスは自分とは全く違う性格の人間。強く猛々しい。しかし強さゆえ、誰も信頼できず人を疑って自分を滅ぼしてしまう男。演出家の小池に「日常から変えないと変わんないぞ」と言われ続け、自分を形作っている性格の中から、人を信頼できない懐疑心の部分をぐわっと大きく膨らませて、生活してみた。同時に強さを纏(まと)う自己催眠をかける。すると体も変わり、目線も変わって、全く違う視点でものを見るようになった。日常の中でどう人と接し、ものを見て、何を感じているかということが引き金になって気持ちが変わる、それをコントロールして役にする技術を学んだ。そして、舞台上にリアルに生きるという目的を得た。

リアルに生きる

舞台上では色々なことが起きる。人を殺すシーンがある、けれど実際に人は死んでいない。でもまさにそういうことが起きた錯覚に陥る。泣いている人が本当に悲しそうに見え、笑っている人は心に明るい光が差しているように見える。もともと何もないところに、どうやってリアルな、本当のものが生まれるのか。

舞台上では自分を裸の状態に置く。常にそうしていないとリアルなところまでいかない。どこか嘘っぽい芝居、動いているだけのダンスになってしまう。自分が裸になると相手も裸になり、初めて純粋なコミュニケーションが生まれる。素の自分を見せると、相手も、ああ、こういうやつなんだと、すっと入ってきてくれたりする。その訓練を舞台上でやっている。技術の高い人はどんな風にも技術で化けられるのかも知れない。けれど不器用な自分はその役柄に成りきるなり、その役として生きるなりして、言葉に言えない感覚を表出する。そこにあるリアルを、お客さん達は見に来る。嘘のないものを見せられると、相手も嘘をつけない。見る側にも嘘がなく伝わる、そこで観客と本当のやり取りができる。リアルさ、ある種の憑依と言えるかもしれない。昔から舞台上は憑依の場だ。

リハーサルと本番とでは、一分一秒違わず、同じことをやっていても全然違う。舞台は生もの。それは、見に来る人が違い、見に来る人数が違い、見に来る人のエネルギーが違うから。舞台は常に観客に影響を受ける。

自分が一番いいと思える状態は、舞台上でものすごく集中して芝居をしながら、同時に観客席に座り向こうから視線を送っている自分を感じる時。緊張感を持ち集中しながら、楽にやるのがいい。

Fight me

「即興は即興ですごく面白いんです。このインタビューも即興ですし」。人生自体が即興で、小さい頃から「思い立ったが吉日」。いくつもの選択肢からこの瞬間になにを選び取るか。「あ、今これ一番やらなきゃ」と思うとそれをやらずにはいられなかった。今もそれは変わらない。年を取ると、自分の意識もそうだけれど、周りから「お前30歳に(40歳に50歳に)なったんだからそれはやめとけよ」という視線を感じて、自分の直感が社会にどんどん抑圧されてしまう。そこをもう一度自分側に戻って、「いいや、そう言われてもやっぱりこうじゃないの?」ということを最大限発揮できるのがインプロビゼーション(即興)。

よく海外の、ミュージシャンやダンサーや役者や詩人や画家といったアーティストと一緒に、即興をする。言葉なしのコミュニケーション。嘘のないひらめきの瞬間の連続。相手が絵を描いたり、音楽を奏でている間に、こちらは踊っていたり、二人で踊る場合もある。いろいろな出会いがあるけれど、うまくできたと思う時は、お互いに本当に好きなことをし合って、それが深く結びついた時。音楽をやる人にはなるべく伴奏をしないでほしいと話す。どちらかと言うと、自分と闘ってもらうようなつもりで「Fight me!」と言う。こっちはこっちで熱中して、バイオリンを弾いている相手を無視して踊ることもある。相手も好きなように演奏する。情熱と情熱をがんと本気でぶつけ合う。しかしどんな時も相手を感じている。相手に迎合し過ぎることなく、寄り添い過ぎることもなく、言いたいことを言い、相手の言いたいことを言わせる即興が面白い。

現代美術は「ものをどう見るか」ということ。使う素材が違うだけで、現代演劇やダンスも、「何をどういう風に見るのか」ということだと思っている。自分は自分の体を使って、体を通して、何をどう見るのか。相手が人なら、会った瞬間に、体全体で、感覚を開いて、その人の全体の気配やエネルギーをぱっと捉える。そうしながらコミュニケーションを取る。普段人間は、要るものだけを選択して、他のものを見ないように、聞かないように、塞いでいる感覚がある。しかし、それらの感覚を意識して開いて、耳を澄まし、嗅覚を鋭くし、皮膚感覚を開いて、それらを全部使ってみるとそれだけで世界が全く違って見えてくる。日常も深いものになり、非日常的な感覚が生まれてくる。

体が教えてくれる

「体が持っていってくれるということはあります」。 本番前のウォーミングアップに、体を枠に嵌めないで何も考えずに、飛んだり地面を這ったり転がったり、ひたすら体を動かし続けて120%までいってみると、それまで100%しかできなかったことが本番で140%できたりする。それは固まっていた気持ちよりも先に、体が気持ちを引っ張っていってくれるからだと考える。「意外と体にはポテンシャルがあるんです」。体はまだまだ面白い。体自身が教えてくれることがたくさんある。今50歳に近くなって、20代や30代に比べて高くは飛べない。だが30代より今の方がずっと楽にできる。15年前からやり続けている作品「島」は、1時間で1キロ体重が減るほど消耗する。しかし、以前より今の方がずっと楽にできる。技術的なことなのか集中力なのか、単純に経験なのか。人間の成長、それは一直線に右上がりではない。ずっと努力していても全然良くならないと思いながら続けていると、ある瞬間にふっと次の段階に行っている。

・・・・・

今しかない。何をしていてもいいけれど、今日を元気に生きる。リアリティをもって生き生きと生きる、それができてこそはっきりと掌握できるものがあり、それを続けることで未来はあとから勝手についてくる。「未来の自分はどう変化していますか?」との問いに対する松島さんの答えだ。更に続いた言葉に驚く。「70歳位で自分の体のピークが来たらいいなと思っています」。その姿をぜひ拝見したい。

取材・写真 篠田英美

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