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コミュニケーション・バイブル

小池博史

2012.02.15

単純につまらない、を、単純に面白く

自分が知っていることを反芻して、その確認をするだけのコミュニケーション、をする人は多い。「つまらないですよね、それだと」

僕はそんなところにいたくない。「自分が持っている情報なんていうものを超えたいじゃないですか」。そうすると、それをどう壊すかということになる。子どもがなぜ面白いかというと、そういう想像のつかない驚きを山のように持っているからだと思う。だから色々な可能性を吸収していく。でも、ある時からそれをぴたっとやめてしまって、既に見知っている自分の情報で全てを判断するようになる。それは単純につまらないと思う。

パパ・タラフマラの舞台に登場する、前輪だけの自転車。あれは何のためにあるのか全く意味が分からないでしょう?あの意味の分からなさがいい。全く無用物。でも人は、あぁいうものを押すとか、回ったら面白いとか、そういう欲求から始まっているのだと思う。そういう欲求を形にしていくことを、ずっとやってきた。ただ単純に見ていて自分が面白い。「なんで、と言われても、わかりません、としか言いようがない」

コミュニケーションとは、自分の反応に対して相手が反応し、それにまた反応して、化学変化を起こし続けること。舞台の面白さは、実はこれが辛いとも言えるけれど、要素が無限にあること。それは、圧倒的な可能性。舞台はコミュニケーションで成り立つ。空間をどう作り、時間をどう変えるか、その中に身体をどのように置くか。それら、非常に細かなミクスチャーを形成していく中で、自分が提示したことに、さてあなたは何を提示してくれるだろうか。その提示されたものに対して、ではこうしていこう、という化学変化の連続。人だけではない。あるスペースに椅子をぽんと置いてみる。すると空間が語り出す。そこに光が一本パッと通る。棒がゆっくり下りてくる。音が鳴る。それだけで空間の見え方と時間に変化が出る。空間と時間と身体のコミュニケーションが始まり、それらが密接に結びついていく。

ミクスチャーの仕方は多様で、分かりやすい台詞があり、分かりやすい踊りがあると、人は自分が知っている情報で処理できるから、その世界に入りやすいと感じる。けれど、僕がやりたいことは、それプラスアルファの「アルファが10個位な感じ」。ただ、踊りです、あるいは、台詞のある演劇です、というのではなく、そういったものを統合したもの、またはそのどちらでもない中間領域に惹かれる。

心

舞台上の体は、重さを感じる。重さを感じるけれども、それ以上の可能性が出てくることがある。体は空中に跳ね上がれないが、「心には重力がない」。観客は心で、舞台の相手と自由にコミュニケーションできる。心というものは、人を飽きさせない。

パパ・タラフマラの20数年前からのメンバーで、一番小柄な、トップダンサーの白井さち子。20歳だった彼女が、30歳を過ぎ、40歳を過ぎ、当然動きの速さなどで衰える部分は出てくる。けれど、それ以上に、自分の中の非常に生理的な感覚が表に出てくるようになり、いい意味で、妖怪化してきている。それは彼女が自分の中でどういう風な時間を作るかということ。それが観客に伝わる。心は多様。人は多様な方が面白い。舞台では、ばらばらをばらばらに見せないのも大事。それでもばらばらで、そこに多様な感覚が生まれる。

からだ

顔つきや体つきを見れば、その人が分かる。股関節が固くなると頭が固くなる。筋肉も柔軟性のある筋肉の方が、気持ちも頭も柔らかい。体のどこがどう弱いかということで、性格も変わってくる。弱いからだめ、ということではない。弱いなら、どうするか。そこで諦めず、自分自身の体を聞けるというのもコミュニケーション。どう節制するか。どういう限界値を自分の中に敷いていくか。本当に疲れている時に、逆に運動した方がいいこともある。そういうバランス感覚を体の中で認識できるかが重要。

「からだ」という言葉を辞書で引くと、最初に「なきがら」と出ることが多い。「死を最初から内包しているのが人間なのだという認識は、非常に重要だと思う」。生まれるということと、死ということの両方が誕生と同時に生まれる。

タラフマラとは、メキシコの部族の名前。メキシコ文化の面白いところは死を内包していることだと思う。毎年11月2日の「死者の日」には、町が骸骨だらけになる。オクタビオ・パスという、メキシコの詩人、外交官、批評家が書いた『孤独の迷宮』に、メキシコ人はこれだけの歴史がありながら、歴史というものを自分たちで断ち切ろうとしてきた、とある。歴史を断ち切ることで、自分が起点になるという発想。つまりいつでも起点に立てるだけの人間でなければならない。「僕は感動しましたね」、19歳、大学生の時。そして1982年にパパ・タラフマラを立ち上げた。あれから30年。あっという間とも、こんなにたっぷりしていた時間はない、とも言える。小さい作品も合わせると100作品位作った。2012年3月にパパ・タラフマラを解散する。歴史を断ち切り、また自らが新たな起点になる。

舞台芸術の授業から

2011年の4月から埼玉県立芸術総合高等学校の3年生に週に一度、舞台芸術を教えている。今までにない新鮮な授業と評判。演劇や舞踊を教える人はいても、その全部を内包する舞台芸術を教えられる人がいない、ということで白羽の矢が立った。まずは体を動かすことに慣れてもらう。自分や空間、観客の視線とコミュニケーションをしながら、頭で考えるのではなく、感じる。動く時は、呼吸と一緒に動く。息を吸い、吐くことを止めないで、体を楽にし、のびやかに動く。呼吸を止めると体は硬くなる。息を吐くと体はリラックスし、大きく広がる。鼓動はリズム。世界はリズムでできている。様々なリズムの、単調でない連なりが観客を惹きつける。技術はあった方がいいけれど、それだけじゃない。時間をどう作るか。観客に伝わるには、自分の感情をもっと膨らませていくこと。

「観客を飽きさせないコツは?」との生徒からの問いに率直に答える。「すごい、と思わせること」。一方で、自分が飽きてきたら、そこからがスタートライン。工夫することで、作品の強さが出てくる。

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小池作品に薫る色気について問うと、「人は艶めかしい方がいい。そして人は、いかに濃厚であるか、です」。まるで小池さん自身のよう、と言うと、「顔が?」顔はしょっちゅう言われますけどね、とよく響くいい声で笑った。

取材・写真 篠田英美

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